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1、國(guó)立臺(tái)灣大學(xué)開放式課程白先勇文學(xué)講座《中國(guó)的詩(shī)學(xué)》第十三講:詩(shī)言景(二)授課教師:京都大學(xué)文學(xué)部川合康三教授教室:國(guó)青324室時(shí)間:2013年5月8日(二)上午10點(diǎn)20分~12點(diǎn)10分【本著作除另有註明外,採(cǎi)取創(chuàng)用CC「姓名標(biāo)示-非商業(yè)性-相同方式分享」臺(tái)灣3.0版授權(quán)釋出】第1頁(yè),共25頁(yè)?!祜L(fēng)景の発見ここまで詩(shī)と感情の関係を見てきた。ここからは詩(shī)と風(fēng)景の関係を見ることにする。感情と風(fēng)景は中國(guó)の詩(shī)論のなかで言われる情と景であり、詩(shī)を構(gòu)成する二つの大きな要素である。1羊祜の故事始めに一つの話から見よう?!笁櫅姹工喂适陇趣筏皮瑜?/p>
2、られたものである。西晉の羊祜(二二一ー二七八)が襄陽(yáng)の峴山に登って感慨を催したという話で、羊祜の死後、襄陽(yáng)の人々は為政者としての彼の功績(jī)を讃えて石碑を建てて記念し、それを見るたびに人々は涙したので、杜預(yù)が「墮涙碑」と名付けた、という話である。それを最も詳しく記しているのは、『晉書』(六八四年成書)巻三四、羊祜傳である。羊祜字叔子、泰山南城人也。……祜樂山水、毎風(fēng)景、必造峴山、置酒言詠、終日不倦。嘗慨然歎息、顧謂從事中郎鄒湛等曰、「自有宇宙、便有此山。由來賢達(dá)勝士、登此遠(yuǎn)望、如我與卿者多矣。皆湮滅無聞、使人悲傷。如百歳後有知、魂魄猶應(yīng)
3、登此也」。湛曰、「公徳冠四海、道嗣前哲、令聞令望、必與此山倶傳。至若湛輩、乃當(dāng)如公言耳」?!尻?yáng)百姓於峴山祜平生游憩之所建碑立廟、歳時(shí)饗祭焉。望其碑者莫不流涕、杜預(yù)因名爲(wèi)墮涙碑。荊州人爲(wèi)祜諱名、屋室皆以門爲(wèi)稱、改戸曹爲(wèi)辭曹焉?!蜢铯献质遄?、泰山南城の人である?!蜢铯仙剿盲?、よい日和には必ず峴山に出かけ、酒を設(shè)けて吟詠し、終日飽きることがなかった。ある時(shí)深く嘆息して、從事中郎の鄒湛らに振り返って言った、「宇宙が生まれた時(shí)から、この山は存在している。以來、わたしや君たちと同じように、ここに登って遠(yuǎn)くを眺めたすぐれた人士が
4、たくさんいる。しかしみなこの世から消えて消息が知れない。胸が痛むことだ。もし死んだのちも精神がのこるならば、たましいとなってここに登ることだろう」。鄒湛が言った、「殿は四海に冠する徳、先哲を継ぐ道を備えておられます。令名はこの山と同じように久遠(yuǎn)に伝わることでしょう。わたくしなどのごとき者は、殿のお言葉のとおりになるでしょう」。……襄陽(yáng)の人々は峴山の羊祜がいつも行楽していた場(chǎng)所に碑と廟を立て、時(shí)節(jié)ごとに祀りをした。その碑を見る人は、誰もが涙を流したので、杜預(yù)が「墮涙碑」と名付けた。荊州の人々は羊祜の名前を避けて、居室は(戸と言わずに)
5、門と稱し、「戸曹」は「辭曹」と言い換えた?!?頁(yè),共25頁(yè)。襄陽(yáng)に羊祜が都督荊州諸軍事として滯在した、晉?武帝?泰始五年(二六九)の頃のことであろうか。呉攻略の戦略基地となる襄陽(yáng)を治めていた羊祜は、峴山に登って人の命に限りあることに思いを致し、悲嘆したのである。今、『晉書』を引いたが、この話はあちこちに見える。以下、煩瑣にわたるが、類書?地誌のなかに見られるこの故事を原文のみ挙げれば、『晉書』と同じく唐初に編まれた『藝文類聚』(六二四年成書)には、巻三五?人部?泣に、『襄陽(yáng)耆舊記』曰、羊公與鄒閏甫登峴山、垂泣曰、「有宇宙便有此山
6、。由來賢達(dá)、登此遠(yuǎn)望者多矣。皆湮滅無聞、不可得知。念此令人悲傷」。『北堂書鈔』(隋?大業(yè)年間六〇五ー六一七成書か)には、巻一〇二?藝文部?碑の「立碑峴山」の條に、『襄陽(yáng)記』云、羊公好上□□、參佐爲(wèi)立碑峴山。とあり、同じく「參佐立碑」の條に、『荊州圖記』云、羊叔子與鄒潤(rùn)甫嘗登峴山遠(yuǎn)望、後參佐爲(wèi)立碑著故處、百姓毎行望碑、莫不悲感、因名爲(wèi)墮涙碑。と見える。『襄陽(yáng)耆舊記』は『隋書』経籍志?史部?雜傳に「五巻、習(xí)鑿齒撰」と著録されている。習(xí)鑿齒は『晉書』巻八二の本伝によれば、襄陽(yáng)の人、生卒年は確定できないが、桓溫に仕えたことから、東晉、四世紀(jì)
7、中頃の人であろうと推測(cè)される。これが現(xiàn)在確認(rèn)でき、る羊祜峴山の故事の記録として早いものといえよう。ちなみにそこでは従者を「鄒閏甫」に、作るが、他の資料ではすべて「鄒潤(rùn)甫」と表記される。鄒潤(rùn)甫については宋?洪邁『容斎題跋』(『津逮秘書』一三集所収)巻一、「跋晉代名臣文集」の條に、「鄒湛姓名、因羊叔子而傳、而字曰潤(rùn)甫(鄒湛の姓名は、羊叔子のおかげで後世に伝えられ、字は潤(rùn)甫という)」というが、しかし『晉書』巻九二文苑伝に伝も立てられている人物ではある?!膏u湛、字は潤(rùn)甫、……深く羊祜の器重する所と爲(wèi)る?!铯顾卧?shī)及び論事議二十五首、時(shí)
8、の重ずる所と爲(wèi)る」、官も侍中、少府に至っているし、『隋書』経籍志にはその著として『周易統(tǒng)略』五巻、また梁の時(shí)の存目として『鄒湛集』三巻、録一巻が著録されているから、決して無名の従者ではない。羊祜の故事は唐以後の地誌にも記録されていく。